感動のノンフィクション、『お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい』を読んで見つけた詩の傑作

書籍

差別をする人間のさらす生き恥

重度の脳性麻痺で生まれた山田康文君は、全身が不自由なために自分で寝返りをすることが出来ず、不幸にして枕で鼻と口を塞がれてしまって、15歳という若さで亡くなった。

私は、この世界で最も許しがたくて醜いものは人間の差別感情だと思っているが、本書に収められている康文君の弟が書いた作文を読んで、その思いがより一層強くなった。

「以下引用」

ぼくには、手足の不自由な兄がいる。父も母も、大きい兄も、おじいちゃんもおばあちゃんも、家族みんなでみまもっている。

兄は、自分の力では、なにもすることができないけど、がまんができる。強い人だなあと、思うことがある。

毎年、夏にやってくる夜店や、夏まつりは、母のつらい間だ。夜店の開かれる、すぐちかくに、ぼくの家があるので、母は、
「連れていってやりたいけれど、あまり人がじろじろみるのでなあ、スターなみや」
と、笑う。

「見られてもええやん。連れていったろうよ」
と、ぼくがさそう。

車椅子にのせてもらった兄は、喜んでわなげとか、花火とか、いろいろな店を見ていくと、おとななのに指さして笑う人がいる。あるお母さんは、自分の子どもに、
「これこれ、そんなことやめとき、わるいことしたら、あないなんねんで」
と、悪い見本のように言った。

「ちがう、兄ちゃんの、不自由なのは、悪いことしたからやないで。生まれるときに、頭の中にできた、けがのためや」
と、ぼくは大きな声で叫びたかった。

運どう会の昼食のときにも、兄のほうをみてくすくす笑っている人がいた。それまで、母からおいしそうに、おべんとうを食べさしてもらっていた兄の顔が、急に悲しそうになった。その顔を見て、僕も悲しくなる。でも、ぼくたちは、すぐにおもしろい話をする。

ぼくは、からだの不自由な兄が運どう会にきて、おうえんしてくれるのが一ばんうれしい。何日もまえから、
「きっとやで、ぜったいきてや」
と、たのんでいた。兄は、ようご学校を休んで、ぼくのおうえんにきてくれたのだ。

よその人がどんなに見ても、ぼくは、ゆうえんちでも、百か店でも、えいがやレストランでも、兄といっしょにいきたい。

ぼくは、兄のたのしそうな顔を見ていると、自分もたのしくなる。近じょの人や、しんせつな人が、兄をはげましてやってくれたときは、とてもうれしい。

「あんな人ばっかりやったらええのにな」
と、思うときがある。

からだは不自由でも、兄のきれいな心は、ぼくたちよりすばらしいと思う。気もちよくみんなのあつまるところへ行けるような世の中が、早くくるように、ぼくたちは努力していきたいと思う。

【『お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい』 向野幾世〈こうの・いくよ〉(2004年、扶桑社文庫)】

無知と偏見とねじ曲がった根性から生まれた差別感情は、人間として最も醜い振る舞いを生み出した。やっちゃんを指さして笑ったような人間は、自分の行動が「恥」以外の何ものでも無い事に気がつかずに今も生きていることだろう。無条件に醜い。

差別をするという行為は、生き恥をさらす行為である。

世間には脳みそがタクアンで出来ている人間も存在する

「これこれ、そんなことやめとき、わるいことしたら、あないなんねんで」

こんな事を言った奴の脳味噌は、きっとタクアンかなんかで出来ている筈だ。死ぬまで生き恥をまき散らせばいい。脳がタクアンで出来ている人間と関わったことで、康文君に「ごめんなさいね おかあさん」という魂の詩を読ませた。

「以下引用」

「ごめんなさいね おかあさん」

ごめんなさいね おかあさん
ごめんなさいね おかあさん

ぼくが生まれて ごめんなさい
ぼくを背負う かあさんの
細いうなじに ぼくは言う

ぼくさえ 生まれてなかったら
かあさんの しらがもなかったろうね

大きくなった このぼくを
背負って歩く 悲しさも
「かたわの子だね」とふりかえる
つめたい視線に 泣くことも

ぼくさえ 生まれなかったら

【『お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい』 向野幾世〈こうの・いくよ〉(2004年、扶桑社文庫)】

くり返しになってしまうが、差別をする人間の脳みそはタクアンでできているのだから、そんな人間の言葉や冷たい視線など一切気にする必要は無い。憐みの眼差しを差別者に返せばよい。

あの人、可哀そうに、脳みそがタクアンなんだ…。

海よりも深い愛を育んだ母親

この詩を読んだお母さんは、やっちゃん(康文くん)に詩で返事をした。

「以下引用」

わたしの息子よ ゆるしてね

わたしの息子よ ゆるしてね

このかあさんを ゆるしておくれ

お前が脳性マヒと知ったとき
ああごめんなさいと 泣きました
いっぱい いっぱい 泣きました

いつまでたっても 歩けない
お前を背負って 歩くとき
肩にくいこむ重さより
「歩きたかろうね」と 母心

“重くはない”と聞いている
あなたの心が せつなくて

わたしの息子よ ありがとう

ありがとう 息子よ

あなたのすがたを 見守って
お母さんは 生きていく

悲しいまでの がんばりと
人をいたわる ほほえみの
その笑顔で 生きている

脳性マヒの わが息子
そこに あなたがいるかぎり

【『お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい』 向野幾世〈こうの・いくよ〉(2004年、扶桑社文庫)】

母親の愛に触発されて生まれた詩の傑作

この母親の無条件の愛を言葉に変換した詩が、やっちゃん(康文くん)に、どんな詩人でも紡ぎだせないような、人の魂を打ち震わせるような詩を作らせた。

「以下引用」

ありがとう おかあさん

ありがとう おかあさん

おかあさんが いるかぎり
ぼくは 生きていくのです

脳性マヒを 生きていく

やさしさこそが、大切で
悲しさこそが 美しい

そんな 人の生き方を
教えてくれた おかあさん

おかあさん
あなたがそこに いるかぎり

【『お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい』 向野幾世〈こうの・いくよ〉(2004年、扶桑社文庫)】

障害を持っていなくたって、自分の人生を適当にいい加減に生きている人間の方が遙かに不幸だ。私は別に障害を持った方たちのすべてが、素晴らしい人間性を兼ね備えているなどとは思っていない。

看護師という職業柄、障害を持っている方と接する事も多かったが、障害を持っていても人間性の良い方もいれば、逆に人間性の良くない人だっている。それは、障害を持っていない人間だって同じだ。

やっちゃんを始め、障害を抱えた子供たちの、ありのままの素直な「詩」が本書にはいくつか収められていて、読んでいると悲しみや怒りや喜びが押し寄せてくる。

38年前の本であるが、『お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい』は、人間が生きていくことを深く見つめさせてくれドキュメンタリーの傑作である。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

前に進む。たとえジグザグであろうとも。

 

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